歴史とこだわり

歴史の街、熱田。その御膝元で150年以上、
研鑽した技と味を今も続けています。

尾張名古屋は多くの英雄を輩出してきました。その中心にあった街が熱田です。

古くは神話の時代。日本武尊(ヤマトタケルのミコト)の白鳥伝説。鎌倉幕府をつくった源頼朝生誕の地。戦国時代を駆け抜け、多くの武将を従えた、織田信長。その信長にあこがれ農民から天下人となった豊臣秀吉。江戸幕府を作り、天下泰平世の礎を築いた徳川家康。

そんな多くの時代に歴史に名を遺した人物に大きく影響を与えた街、熱田。そんな偉大な人物が集まる中心にあったのが、熱田神宮と港町熱田(宮の宿)でした。

古くから人の往来が多く関東、関西の中間地としても重宝され、たくさんの人・物・情報が集まりました。港町で海産物も多く織田信長が毎日清洲城に魚を持ってこさせた記録もあります。

そんな歴史の街・港町、熱田で150年以上、安心・安全で美味しい蒲鉾を作り続けています。

お子様から御爺ちゃん・御婆ちゃんまで幅広くお召し上がりいただける商品を昔も今も安全・安心を守り美味しく提供しております。

蒲鉾の歴史と名古屋かまぼこの由来

戦国時代から、かまぼこは人々に愛され続けてきました。

尾張名古屋の蒲鉾は朱色(あかいろ)の蒲鉾で、名古屋朱色(なごやあか)と呼ばれています。え、朱色?! と疑問に思われるかもしれませんが、全国にはたくさんの地域で様々な蒲鉾作られています。北は北海道から南は沖縄まで、その場所で採れた魚を使ったものや、地域の技法・調理法によって蒲鉾が作られ、板付き蒲鉾の色も白・ピンク・緑そして朱色とたくさん作れれています。

蒲鉾の歴史は古く。西暦200年頃第14第天皇、仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后である、神功皇后が三韓征伐の際、朝鮮半島へ援軍と共に向かう際、味方の士気を高める為、蒲の穂先に敵の鉾(ほこ)に見立てた魚のすり身を塗り付け焼いて食べたのが始まりだと言われています。

しかし、根拠となる書誌・文献などはなく。口伝として蒲鉾屋に言い伝えられているにとどまります。その為、文献に登場するのが、平安時代(1115年)類聚雑要抄(るいじゅぞうようしょう)に記載されているもので、1115年7月21日、関白右大臣藤原忠実が東三条殿へ移御の際、催された宴会にて出されたご馳走に蒲鉾が提供されたと書かれています。

蒲鉾の語源も、蒲(がま)の穂に色や形が似ていることから、蒲穂子(がまほこ)と呼ばれていましたが、蒲の穂が鉾にも似ていることから蒲鉾と言われるようになりました。

名古屋蒲鉾の歴史は諸説ある中で古くは戦国時代。織田信長の頃に遡ります。この頃熱田周辺は熱田港と熱田神宮を中心に繁栄していました。

当時の熱田神宮は尾張造りと呼ばれる朱色の御社で朱色は邪気を払うとして好まれておりました。その為この熱田周辺の蒲鉾には朱色が使われたと言われています。

また、この時代に尾張を納めていた織田家当主織田信長は朱色(赤色)を好んでおり、東海三県に広まったとされています。実際、尾張(愛知県)美濃(岐阜県)伊勢(三重県)以外にはほぼ朱色の蒲鉾はありません。名古屋蒲鉾の朱色は熱田神宮の御社の色と織田家によって広まったと言われています。

また、名古屋は「派手な色を好む」文化があり名古屋めしの味噌煮込みに入れたり、雑煮やお吸い物などに入れても見栄えが映えることから朱色かまぼこが好まれ広まったとの言われもあります。

手作りとこだわり

大事なところの製法は変えずに、沢山の人に食べれるように近代化しています。

弊社は機械生産をとりいれた現在でも、手作りでの製造を継続しています。毎日作るすり身の状態を確認する為でもあります。

また、すり身は同じ工程で作っても一尾一尾の魚の身質の違い。気温・室温などでも違いが出ます。

その微妙な違いを調整する為にも。手作りで製造する技術を持っていると、すり身の質を五感で感じとり、微細に操ることができるのです。

蒲鉾の品質を守る上でも手作りの技術は大切だと考えています。この技術を末永く継続すべく毎日の製造に手作りの製品を製造しております。

また、ふわふわの長芋入り新薯は、弊社用に特注の木箱をお願いし。1本1本手作りにこだわったふわふわ食感の蒲鉾を作っております。

また、ご予約注文に限りますが、手作りの板付き蒲鉾、細工蒲鉾もお作りすることができます。

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