尾張名古屋の蒲鉾は朱色(あかいろ)の蒲鉾で、名古屋朱色(なごやあか)と呼ばれています。え、朱色?! と疑問に思われるかもしれませんが、全国にはたくさんの地域で様々な蒲鉾作られています。北は北海道から南は沖縄まで、その場所で採れた魚を使ったものや、地域の技法・調理法によって蒲鉾が作られ、板付き蒲鉾の色も白・ピンク・緑そして朱色とたくさん作れれています。
蒲鉾の歴史は古く。西暦200年頃第14第天皇、仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后である、神功皇后が三韓征伐の際、朝鮮半島へ援軍と共に向かう際、味方の士気を高める為、蒲の穂先に敵の鉾(ほこ)に見立てた魚のすり身を塗り付け焼いて食べたのが始まりだと言われています。
しかし、根拠となる書誌・文献などはなく。口伝として蒲鉾屋に言い伝えられているにとどまります。その為、文献に登場するのが、平安時代(1115年)類聚雑要抄(るいじゅぞうようしょう)に記載されているもので、1115年7月21日、関白右大臣藤原忠実が東三条殿へ移御の際、催された宴会にて出されたご馳走に蒲鉾が提供されたと書かれています。
蒲鉾の語源も、蒲(がま)の穂に色や形が似ていることから、蒲穂子(がまほこ)と呼ばれていましたが、蒲の穂が鉾にも似ていることから蒲鉾と言われるようになりました。
名古屋蒲鉾の歴史は諸説ある中で古くは戦国時代。織田信長の頃に遡ります。この頃熱田周辺は熱田港と熱田神宮を中心に繁栄していました。
当時の熱田神宮は尾張造りと呼ばれる朱色の御社で朱色は邪気を払うとして好まれておりました。その為この熱田周辺の蒲鉾には朱色が使われたと言われています。
また、この時代に尾張を納めていた織田家当主織田信長は朱色(赤色)を好んでおり、東海三県に広まったとされています。実際、尾張(愛知県)美濃(岐阜県)伊勢(三重県)以外にはほぼ朱色の蒲鉾はありません。名古屋蒲鉾の朱色は熱田神宮の御社の色と織田家によって広まったと言われています。
また、名古屋は「派手な色を好む」文化があり名古屋めしの味噌煮込みに入れたり、雑煮やお吸い物などに入れても見栄えが映えることから朱色かまぼこが好まれ広まったとの言われもあります。